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~神への帰依の模様を日常からの問答から導き出します~
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昨夜は友人が就職祝いということで、飲みに出かけた。
午後3時から午後10時半までとは飲みすぎだろう。
それは楽しかった。
満足している。

体力が落ちていることが良くわかった。それが分かったことも満足している。
しかし、ここニ、三日でどうにかなるものではない。
身体がガタきているのか、耐性ができていないようで、
今日みたいな寒い日は、寒気がしたりする。

とりあえず、入社ニ、三ヶ月は、「ハイ。笑顔」で行くようにとのアドバイスまでもらった。
夜中の十二時に家に帰り、ワインを結構飲んでいたので、目も充血し、歯もワインカラーになってしまっていたが、明日起きなければ、という気持ちでさっさと寝に就いた。
しかし、布団がやたら暑く、寝苦しく十分な睡眠は取れなかった。

そして、やってしまった。
六時半起きずに、10時半までうだうだと寝ていた。

実践練習としては失敗だ。
酒も飲めないみたいだし、体力も低下に歯止めをつけなければならない。
しかし、唯一、負の感情を変えてくれることがある。

午後3時から8時間近くも飲み続けていて、
朝6時に起きようとする気概である。

これがある限りなんとかなるようなきがしている。



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今の時刻は午前七時三十四分

そろそろ出かける時間のはずである。
でかける代わりにブログを書いている。

しかも雨が降っている。
気分は・・・・というとなかなか晴れるものじゃない。

残業が、とよく言われるが、こんな時間に出勤して、午後9時だとかに帰宅の人もいるんだろう。それが毎日の人もいるはずだ。

正直、冗談じゃないと思う。
自分で事業を起こしている責任者ならそれくらいはありだろうが、
吉兆のように従業員が社長の偽装工作の指示にしたがわないとクビだとか、
とにかく従業員、社員は社長の思念に従わなければならない。

つまりは何が言いたいのか、
残業をするのは責任者として
従業員は定時に帰る事

これが基本だということだ。
定時に帰っても、12時間たった午後7時半頃に家に着くわけだ。
通勤、仕事、帰宅 これだけで12時間は十分な労働時間だろう。

なぜ残業して、年俸だから残業代が出ないとか、能力給与だからでないとか、
そんなことがまかり通るのか。
社長が他にもたくさんほしいだけである。

「自分株式会社として働け」

など最近は言われる。
ならば、自分社長ならば、定時に帰る 定時までに帰る仕事に組み替え合理化する
のが俺の考えだ。

自分が社長になったとしても自分は定時に帰る。
それでこそ利益の価値があるものだ。

そしてフィットネスクラブに行き、自分を磨く時間に残りを割く

これが今の理想でもある。
しかし雨だと寒いものですね
なかなか昨日の疲れが取れない。
先ほどまで寝ていたのだが、睡眠薬を摂って、眠りに就いたのが何時だか覚えていない。今日は会社に年俸の件で連絡をしないとならなかったが、それができずに向こうから電話がかかってきた。

不安だ。

体力的に半年以上の勤務についてのブランクがある。通勤が厳しいが慣れるまでふんばれるか。
また所属部の勤務状態はどうなのか。
土日は休みなのか、仕事はどのようになっていくのか。自分で先導していかなければならないのか(リーダー職ではないのでそれではないと思っているが)、残業などの多さ、

突き詰めてゆくところ、体力なのだ。
大学を出てから勤続して不惑まで働いている友人はこういう。
「サラリーマンは忍耐料として給与をもらっているのだ」
体力の限界を昨日は感じてしまった。
だるさも、習慣化されてゆけば少しは抵抗力もつくのだろうか。

非情に不甲斐ないものである。
事業を起こしたいとも考えているが、
今のところ、当てとなることも人もない。
事業計画とも浮かびつかない。

キリンのアミノサプリというドリンクを飲んだ。
そして寝たところ少し回復したような気がしたのだが、
コーヒーを飲みすぎる依存傾向は少し改善しなければならないだろう。

職に就くということは、ここまで不調になるとは思いもしない。
果たして俺はどこまで持つのだろうか。
不惑での就業は奇跡的なのだろうから、
次はないと考えている。

それも空想の産物で事実はどうなのだろう。
空想で事を進めてゆくことができない。
希望でなければならないようだ。

特に希望もない。これだから鬱ということになるのだろう。
書類などの整理が進まない。
気力がない。

さて、体力のことだけですめばよいのだが・・・・



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早速今日、入職の説明を受けてきた。人材紹介会社経由のため、ややこしい。
書類を一通りもらい、帰宅する前に、ハロワークへ行った。これが遠い。
通勤そのものが遠い感じなのだが、遠回りは更に遠く感じる。
就職が決まったことをつげたら、残りの分が約7万あったらしく、それを振り込まれることになった。
定期代が6ヵ月で10万オーバー、健康診断、保証人の件などこの数日でやらなければならないことが目白押しだ。

しかし、これが会社員になるという洗礼でもあり、世のほとんどの人がこういったことを経た経緯を持っているわけだ。
俺も転職は何度かしたが、やはりその都度書類などの手続きをしてきたが、
今回はかなりしんどい。

ウツが完治しているのかどうかというところもあるが、ある意味強制的に働くことになってしまったから、自然治癒+投薬が今現在どうなのか、不明でもある。

明日は明日の風に聞け

今日できることは精一杯やった。
手続き、ハロワ、満足している。
給与の額は平均というところなんだろう。
しかし、この給与額で家を建てたり、子供を育てたりしている人は、
ある意味冒険者なのかもしれない。
旦那の小遣いやら、部下と会食、
たまには競馬なんかもしたい人もいるだろうし、
器用とは、節約器用のことをいうのか、
俺はまだ大きなカネにしがみついているが・・

俺も住宅ローンや子供などについては、世間一般のその波にのらなければならないのかもしれないが、今は通勤地獄を鳴らすことで頭が一杯だ。

今日はビールを飲むか悩んでいるが、
明日健康診断をうけるのだとすれば飲まないのが通常だ。

まあ昨年末会社検診受けていないから、
これで代わりとするか。
と考えたら、気が楽になった。


明日は明日の風まかせ
電話に出たくないときは一切でない。
実は話すのも億劫なくらい疲れているのだ。
体力と慣れと歳は相関関係にありそうだ。



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仕事が決まってしまった・・・というか決まった。
喜ぶべき事柄であるだろう。が、現実というものは、空騒ぎとは背反しているもので、
毎日の往復2時間通勤が週に5日も行われることが決まるのだ。
新しい人との出会いなどと新入社員が入社する時期にはあれだけさわぐことから期待感を高めて、恋や素敵な上司などを望ませる。
しかし、これらは私にとっては無縁である。
カネのために仕事をするのであるから。
それでも人との出会いというのは存在しているのであって、因果関係とか因縁とか縁とか呼ばれている。
縁というのは断っても断る縁であり、結ばれるものばかりが縁とはいわないのである。

いつもの言葉を書いておこうか。

仕事が決まった組織的人の連携のしくみに自分が当てはめられたことに満足する。
自身の経歴でも仕事を任せたいと思われた過去の自分の懸命さに満足する。
パワハラ、モラハラがあると言う予備知識が与えられていることに満足する。
父・母が年老いてきていることから帰郷も考え始めている自分に満足する。
仕事に忙殺されずに、自分で始められる事業をしたいと思っている意思に満足する。
仕事+自分の仕事の開拓という目標が存在することに満足する。
祝いの酒は先日行われ、今は行われないことに満足する。

明日はその会社に説明を受けに行くことになっている。
同時にハロワークに内定報告をし、残りの失業手当が受給できるか確認しなければならない。いや、受給できないと困る。
一ヶ月無収入になるのだから、支給されてしかるべきなのだが・・・

不惑間際で仕事が決まるのも奇跡なのだろう。
団塊の世代がいなくなることで欠けることがらもあるのだろう。
一応胸を張って団体職員です、ということができることには社会的信用も得られていることとあわせてその組織知名度に満足する。

しかし、時間は移ろいでゆき、人は死に至ってゆく。
その中でこの会社に何年いて、自分は会社外で会社を作ることを考えている。
しかも、田舎にだ。父母が年老いてきていることに私自身が兄がいない分、
責任を負っている。

好き勝手やってきたといわれても仕方がない。
本当に好きであったことをしてきたのか分からない。
しなければ死んでしまうだろう事柄をしてきたに過ぎない。
会社に大学を出てからすぐ働く人たちとは異なる時間推移を経ている私には、
切れ目やつなぎ目は存在していない。
すべては連続性である。

できれば純粋な連続性であってほしいと願う。
これで没落から脱出できたと喜ぶほど、没落の原因は柔らかくない。
むしろ没しているのである。

没する生活が本当の意味で始まるのだ。カネと引き換えに人生を毎月きり売りして行く生活の派手やかさはありようもない。



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存在に満足する。
「あることに満足する」
希望があることに満足する。
緑が美しいと感じる心に満足する。
花が綺麗だと感じる心に満足する。
自分にも働かずして月収五十万円得たいという目的があることに満足する。


あることとは「存在」であり、無ではないことである。
また無があることに満足する。

ブログという表現手段を私が得ていることに満足する。
読んでくれている方々がいることに満足する。

そうして「ある」事に満足している自分の精神領域に満足する。
そうしていけば、

すべては「満足」の自分に成り代わることができる。

感謝ではない。
自分自身の満足が大事である。
あることに満足するのである。

みなさんもやってみてください。


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ストレスマネージメントというものがあるらしい。
自分のストレスの管理ということで、どこに考えの転換をもたらすかその習慣を獲得するようなレッスンみたいなものだ。
今はこれに興味を持っている。しかし、予算的なものが整わないために、すぐこれらを習得する環境的要因が揃っていない。

そこで、哲学のフッサールという学者が言ったことを元に感情の揺さぶりをなくする手立てをあるブログの引用から考えてみた。

存在の定義「常に、既に、ここに、私はある」

現象学的還元でフッサルが言った言葉だ。
現実存在を定義するうえで、ありとあらゆる学説、主観、意見、感情などをカッコにいれて、ここに立ち戻らなければならない。予想や推測、感情的な衝動などをカッコにいれる。頭にその余地をまず設けて、思考の一部に当てはめてゆく。それを現象学的還元というが、その還元の上で現象学は始まるのだということだ。

現象学は、科学哲学とも言い、存在を存在そのものにまでもどす方法を表しているが、これに情緒の一つを加えると、心理的な一つの訓示になる。以下の文は、人生訓とも言うべきものだろう。

「君の運命が破れた時は、私の言葉を思い出せ。『運命の良し悪しにかかわらず、全てに満足することだ。』」

すべてに満足する。悪い結果でも満足する。
予期しない結果だとしてもそんなことは関係なく、
今あることに満足すること。これは結構きつい。

運命の良し悪しに関わらず、というところ。
自分の運命がナゼこうなったのかという懐疑や疑問を持つのではなく、
その運命そのものを含めた事象をすべて満足とすることという。

自分が落ち込んだとき、落ち込んでいる自分に満足する。
他人からいやな目にあったとき、いやだな、と思っている自分に満足する。

というくらい、感情的になることなく、感謝でもなく、満足するという。
どんな場合でも常に、既に、ここに私はある という視点からすれば、
それは科学的哲学方法とでも言うくらいなので、
主観や他者からの意見などをもカッコに入れ込んで、事象その①と置き換える。

感情は左右にぶれ、上下に移動するため、空間的認知の世界にある。
その空間的認知をカッコに入れ込んでしまう。

すると自分自身の冷静さを取り戻せることができる。

しかし、哲学的な視点だということから、感謝や満足という情緒の面は、この視点だと発生しずらい。ところが、満足すること、を前提にカッコに入れてみるとどうだろう。

嫌な感情の存在をカッコに入れられた人は「嫌な気持ちがあること」に満足できる。
他人から言語により揺さぶりをかけられたときも、「他者①がこういった」とカッコにいれることで、「他者の存在または言語的示唆」の存在することに満足できる。

他者に振り回されるわれわれは、得てして 快・不快から情緒を高ぶらせてしまう傾向にあるが、「満足」を前提とすることで、この「情緒」の存在があることに対して満足できるのではないか。

器質的な脳の異変がないばあい、かなりきついが、この言葉は非常に崇高な意味合いを持つものだと感じられる。そして、そう感じている自分に満足するのだ。

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夢をかなえる空間という場所は存在するのだろうか。

例えば日本では多数の有資格者がいるため、競争も激しく、トップにたつには才能のほかに運も必要だとする。しかし、あるもののトップに立てていない才能があることは否定できないものだ。

トップにたつものの才能や運、かたやトップに立てない才能や運
トップに立つものだけが生きていけるのだとしたら、
トップに立てないものは生きていけないことになる。

多分とても極端な事例だろう。
ここ日本は、競争社会だ。
トップに立てないものは、どうするのか。

俺が思うには、トップに立てる場所に行けばよいという考えだ。
ある場所では中間クラスだとすれば、
その資格者がいないところではトップになれる。
それは、日本ではなく、例えば海外のどこかだとする。また地方のどこかだとする。
競合他者が存在しないのであれば、トップに立てる。

ある意味弱い犬的発想かもしれない。

あるものは、「何が何でもトップに立つ」という気概で望むのが大事だという。これは嫁様である。

しかし、俺には、その気概がない。がんばってきたはがんばってきたが、これ以上もう飽きてしまって上を狙うには費用も時間も、情熱もいる。情熱がまずないのにもかかわらず、費用も時間も工面できるわけがない。

だから、弱い犬のごとく、なんとかやっていける、生きていける場所をさ迷い歩くのだ。競争に負けた者。それは生存権以前の、社会的敗者である。
俺は競争してきたのだろうか。

自分の考えを他人のせいにして、つまり兄の死が原因だとして、勝負してこなかったのではないか。
もしそれが正しいのだとしても、情熱は俺の中には見当たらない。なにがなんでも一番になる、というような気概は存在していない。

存在しているのは空・無である。

いつもこれが心に存在しているのは、先天的な自分自身の特性なのか、兄の死によってもたらされたことか。わからない。ただ、昔占い師に見てもらったときには、兄の死に原因を摩り替えているといわれたことがある。

しかしだ、それは認めよう。兄の死によってすべてが進まないと思っているとしよう。だからといって、何を心の中心にすえて生きていけばいいのか。
世界平和か。社会環境か。人生の高閲か。

現実世界と接点をもつのは紛れもなく俺自身の世界-内-存在である。

実存という概念がある。
マルチン・ハイデガーがフッサールの現象学からくみ出したものだ。人間自身に直面する現実的な事実・それは自身の死である。死があることを覚悟し、実存として現実生活を生きようとすることを言っていた。

 死の覚悟。それはできているようでまだできていない。自分は明日も生きると思っているようだし、死はまだ遠い先のものと考えられている。
これはいわゆる平均寿命などがニュースや医学的に言われているからであるが、そうでなくとも40にして死するもの、癌になったりするものもいる。
ながらえて90過ぎまで生きていくものもいる。現実を短期的に捉え、緊急的なものと捕らえれば、死は側にあるのか。気長に気楽にと考えることは死を遠くにあるものとするのか。

これ自身の答えは、生きている自分にしか分からない。

不安な気持ちになる場合、脳の器質的変化によるものか、例えばコーヒーの興奮作用が沈静してきた際の状態から発生するのか、欝であるということは、コーヒーによる沈静化が存在の不安にまで感じられることはあるだろう。
しかし、器質的でなければ、気分的なものと考えられる。先行きが豊かに思える人、先行きが暗く思われる人、その思考のスタイルによってうつ病などがでるとすれば、後者は、高揚し続けなければ脱却できないということになる。それに対して現代医学はSSRIなどの精神薬を使うということになる。

 「死ぬ気でやります」などという言葉は、不安の中から光明を見つけましたといいたいために嘘で言うのである。特攻隊に死ぬ気で行って来いとはいうまい。それは「死なない」事を前提に言う言葉だからである。
そうでなくとも、死は存在している。死なないということは一日たりともないのである。日々死んでいる。日々死に近づいている。それを自覚したときの人間のあせりが、仕事のエネルギーになるものか。
「死んでなるものか」と思うときは、個人の死特に、肉体的な状況、緊急的状況に思われてくるものである。競争というのは、ここまで人間を追い込むものなのだろうか。

 ふと我に返ってみる。

勝たなくてもいいのではないか。ほっといても死はやってくる。
だから、死が来ることをほっといてもいいのではないか。
自然と歩み寄ってくるのだから、自覚したからといって、タバコを控えるとか酒を控えるとか少しは医学的な死の忌避手段はある思考かもあるだろう。しかし、それは数年をどうするか程度のものしかない。
勝とうとするから辛くなるのである。ほっておくのが一番良いのである。勝手に向こうから死がやってくる。

 死の決意をもってことに望むことをハイデガーは言ったが、これは死を目前にした焦り、焦燥感からくるニヒリズムであり、精神の正常ならぬ異常興奮が肉体や、精神に作用し、生きている実感を持たせるような行動を社会規範に則って行わせるという人間性善説に基づいているものと思われる。

 しかし、必ずしも人が死を前にして正常な神経伝達を行うとは限らない。焦り狂って自決するものもいるかもしれないだろう。他者をまきぞえにすることもあるだろう。ハイデガーの思想の中には、表現として「詩」を実存手段としてあげている。
文学的に生きていることの表明は確かに詩しかない。それにメロディをつければ、曲になる。しかして、それを表現する手立てはあるのか?俺が詩を書いて、売れるのか?
実存については、売れていなければ、個人的実存も社会的に達成できない。
社会的に達成しなくても良いのであれば、詩を書いていればよい。機械的社会性の一部としての労働として機械的に生きている反面。

それではおそらくダメなのだろう。実存していないことになるのだろう。個人の主体性が社会の必要性と一致していることがなによりも実存を達成するのには必要な要素なのである。

ここがダメなら、あそこがある。あそこがダメなら、こんなのもある。
これができるテーブルのようなスペースが、生きている場所になれば、
何も悩むこともないのだろうに。





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没落が何年も続き、望みどおりの人生にならないと人は神を頼るか神秘的なものに依拠するようになる。

占いから始まり、タロット、そして中国風水、方位学。
これら未知の示しというものは、
カール・ヤスパースのいうような「神の暗号解読」であると俺は考えている。
いや、そう信じていると行ったほうが良いかもしれない。

物事には意味があり、すべては必然でつながっている。いや、偶然だ、と考えから逃れたい意思もある。なぜなら、論理的必然、因果関係的必然として兄の死が自分の人生のなかで結論がついていないからだ。

たとえば、必然が悪的状況になったとした場合、仏教的にはカルマや因縁によるといい、方位学では大凶方位の連鎖だという。

カルマが原因である場合は、人に施しをし、お布施を熱心にし、念仏を唱えすべてを受け入れるようと説法される。

大凶方位の連鎖が原因であれば、年の大吉方位へ四泊以上し、厄を落とすと、吉方位が潜在的な細胞単位での能力の最大発揮がなされるという。また、その場合、金持ちであればあるほど、休みを自分で取れる状況を作れ、大吉方位に行くことができることから、金持ちはますます金持ちや人脈に恵まれる、という。

兄貴が死んだ原因を俺自身、様々考えてきた。

俺自身が大学に行き始めたときに兄は死んだ。スンドメを食らったようなものだ。スンドメパブがあるというが、行きそうな時に、パッと離れる。もやもやとする。半分怒りにも近づく。俺がスンドメを食らったのはなぜか。それは俺が大学という費用のたくさんかかることをしようとしたから兄が家から学費をだすことを不安がってその保険金で大学にいけるようにしてくれたのか。
ならば、大学に行こうとせず、高校を卒業して就職すればよかったのではないか。という概念。

兄は実は純粋無垢であり、俺のように大学でモデルもやり、オンナをとっかえひっかえしようと考えていた事実無限の悪いカルマ拡大の欲望がなく、現実世界に嫌気をもたらしていた。優しい人ほど早く死ぬというカルマの視点。俺の大学に行く本当の目的が、オンナと遊びたいということにあったことを知覚させるために兄を殺したという視点。これは自責と自傷に繋がっている。

兄が大凶方位を繰り返し取ったための最悪の結末として交通事故にあったという方位学の視点。これは事実調べてみたが、そのようには考えにくかった。

ここでは三つくらいしか上げていないが、様々なことを考えて来た。
二十歳そこそこで、人生の分岐点を味わってしまい、楽しいはずの大学生活は、一転し、半ばノイローゼ状態の大学生活を送らされた。あれだけ勉強してやっと手にいれられた自由。それが不自由に変わった。
自分の決断によりノイローゼを選択した訳でもないが、「貴方と付き合いたい」というオンナから離れるようになってしまっていた。彼女を持ったこともなかったのに、チャンスを捨てて捨てて捨て去ってきた。裏には自分の困惑している状態すら理解できない奴と付き合えるかと怒り半分混じった人間関係。それが今も続いている。

何をもってしても、兄が死んだことで、俺は自分の欲望をかなえられるような性格からはかけ離れてしまうことになる。経済学部に入学して国際関係学というものを学びたいと思っていた。将来は商社に入り、海外を飛び回る仕事につきたいと考えていた。
もちろん、その当時は、単に希望というものであり、仏教的な考えや哲学的な考え、方位学的視点などもちあわせていない。兄の死と引き換えにこれらを獲得したのか。そうなれば、これらが必然に学ばされることであったのか。

因果関係という言葉がある。社会科学でもこの因果関係は大事な要素であり、原因と結果との相関関係を歴史社会的な視点でとらえようというものである。
資本主義という概念は、プロテスタントの富を蓄えることは神からの祝福であり、神に人生が神の意図するように進んでいることを示す救いの免罪符である。貨幣は免罪符としての意味を持っている。というのがそれだ。

方位学もやってみた。占いの通りラッキーナンバーにかけてみたりギャンブルもしたりした。うまくは行かない。占いの言うとおりのことをしてみても、なかなか思うようにならない。今回仕事に就くことになっているが、これも因果関係があり、兄の死を超越するような完成形としての出来事なのか。多分違う。

兄が死んだことは、悲しみもあるが、仏の意図を学ぶための出来事であったとしても、それに起因する経済という貨幣がもたらす免罪符は与えられていない。
哲学や倫理学、占いなどで飯を食っていけなかったのは自分に劣点があり、まだ学びが足りないという意味か、それとも違う才能があるのにもかかわらず、死や哲学など形而上学的な空中楼閣を描いている時点で、神の意図から外れていることを示しているのか。

懐疑としてこれらはかなりの容量を持っており、これだけを考えても一生が過ぎてしまう。しかし、それをしている限り、結婚や就業などからどんどんと離れてしまう。子供の頃から思っていた「車を買いたい」「海外旅行に行きたい」など現実世界の欲望からも離されてしまうと思った俺は、結婚をすることにし、嫁を得て、仕事を思い切ってすることにした。

しかし、潜在的にどうしても向いていないように思う。こんな思考状態が毎日続いて、無限地獄とも生きる屍ともいえるようなものだから、現実生活すら送るのが辛いのである。しかし、自身で仕事を作り出す脳の潜在的余力はないようだし、一発逆転の切っ掛けも見当たらないできた。そして、体たらくなサラリーマンを選択する以外に道がないような状況になっている。

意図と事実は何がどう絡んでいるのか。俺の意思や意図は無視され続けてこれからも生きていくのか。
これについてはどの友人も話をすることができない。そこに孤独が存在している。
この孤独がある限り、他人とは生涯交わることができないだろう。


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ウツにて前職場を辞めざるを得なくなり半年以上治療というのか、ぼやけた日常&カネない生活を嫁と送ってきた。
1月かかって某団体職員に採用が決まりそうだという連絡を受けた。正式には今月末の決定で、来月2日から勤務になることがほぼ決まりそうだ。

朝六時半におき、七時半には出る生活が没落的に始まる。
人によっては朝もっと早い人もいるだろうし、遅い人もいるだろう。平均タイムシーク(通勤時間)は1時間ほど。
早速勤務という前に、なんだか組織の説明を受ける研修があるとの事で、それが月末にあるとのことだ。
俺は基本的に残業が多いのは好きではない。残業手当が出るとしてもだ。
仕事の量が多い場合は、上司に問題がある、つまり企業体制自体の問題だ。
自分の能力を超えている場合は、自分に問題があるわけだから、自分で調整可能であればなお残業も調整も可能だと思う。

半年間の風来坊。いや、疾病期間中、良いのか悪いのか。
良いのは自由だったことだ。悪いのは自由でなくなることだ。
自由を売却して、カネを得る。マルクスのいうように労働力以外に売るものがない人間が、労働者と呼ばれるのだ。紛れもない労働者。資本家ではない。

医療を学ぼうとしてから学び既に十年以上たってしまった。俺の資格は指圧マッサージ師。正式には「国家資格 按摩・マッサージ・指圧師」という。これは別にまたいろいろな出来事を書いてゆくつもりだが、予備知識として書いておくと、大学ではなく、三年制の専門学校である。専門学校を卒業すると同時に、この資格の受験資格が得られて、国家資格試験を合格したものに、免許を付与する。そういうシステムのもとにある。

学的内容は、解剖学、生理学、臨床医学、衛生学、医学概論、東洋医学概論、経穴経絡論、など医療の基本的底辺は網羅していると俺は思っている。実習は、各生徒同士で、号令にあわせて指圧の施術手順を身体で覚えさせる形式。俺は浪越学園という「指圧の心母心」に引かれてそこの学校に入った。
厳密には、経絡と指圧のポイントとは噛み合っていない。

更に細かく言えば、経絡指圧という手技がある。
それに反して筋肉指圧とでもいうのが浪越指圧がある。
アメリカで指圧というと、経絡指圧というのが普通だという。

当然の話だ。目に見えない経絡経穴の不可分・過分を施術師が把握して、不足には補い、余分には排除するという気の多寡に調整ができるという至極、相手にとって論理的でありかつ理解しやすいものだからだ。
 余談はこの程度にしておいて、一応哲学的思案から医療としての知識が不足していることを通じて指圧師になったわけだが、根幹である哲学の思案への帰巣はまだ行われていない。今世相で人気なのは、科学者であり、科学者が物質の存在から、このような思念になるというような因果関係を解き明かすことだ。哲学者は、哲学的直観とでもいわれるイデアに基づいて理論を構築していく。
 その対象が、自分にとって、まだ戻っていないということだ。いや、忘れたことはないが、理論体系として語るには少し医学知識も足りないような気もする。

長くなってしまった。
仕事に就くということは、欝の可能性もまた浮上するということだ。何かがんばったならがんばったなりの報酬がない限り、欝は転換できないと思っている俺は、残業代をすべて俺の小遣いにするように嫁様とひと悶着起こさなければならないと思っている。


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ニュースを見ていたら、こんなことが書いてあった。
少しだけ救われたような気持ちになったのでその記事を掲載します。


田中ウルヴェ京(みやこ)さん
「ソウル五輪(1988年)のシンクロ・デュエットの銅メダリストという過去を引きずることから解き放たれた時に、生きる道が見えてきました」

シンクロ引退後の人生設計が見えないまま、24歳で米に語学留学した。「図書館で手にした心理学の本の一章がその後の人生を決定しました。『人生は、勝つことだけがすべてではない』と当時の私には信じられないことが書かれていましたから」と笑う。

----------------------
無意識にわれわれ人間は、特に日本で教育を受けてきて育ってきた人間にとって、「相手を蹴落とし、自分が勝ちあがる」という右肩上がりの図式をインプットされてきたのではないか。
さっき公園を散歩していたが、訳もない不安に襲われた。

不安は存在の不安である。
「このままで勝ち組になれるのか」とか
「やりたいこともできないで生きていくのか」
など言葉にならない複雑な不安だ。
「このままでいいのか」
という問いについては誰もが思い悩むことだ。
当然自分もその強い信仰者の一人だ。
神に願いをかけ、神に祈り、としてきたこともある。

「このままでいい」

そういう心持は誰か教えてくれるだろうか。

誰しもが人と話すときは、教育勅語的な右肩上がりの成長論をベースとした根幹があるため、

「お前そのままでいいと思っているのか。きちんと就職して、きちんとしろよ」

と 親友 は言うかもしれない。果たして親友なのか?

むしろ
「何かしないとならないと思っているみたいだが、何もしなくても良い。そのままでいいのだ」

というのが親友ではないのか。

しかし、どうしてこのような言葉を言うことができない社会になっているのだ。

国の話で恐縮だが、赤字財政を「何とかしなければならない」とハヨシネ保険を導入したり、税金を引き上げようとしたりする。これは日本人の特攻隊的な思考と同じだと思っていいだろう。土壌が同じだから、憲法が変わろうが、土着的性質は変わらない。
他人に土地を騙し取られないように、何とか対策を練らなくてはならない。そういう島国根性が根本にあるものだから、潜在的に「なにかをしなければならない」という気質は拭い去れないのだ。

特攻隊的な思考とは、ギリギリまで節約をして、最後は丸投げするということだ。
やられてまでも、負けが決まってまでもなお「なんとかしないとならない」のであれば、「命を懸ける」のが当然だ。
だから、「一生懸命がんばります」という言葉が普段から使われ、「死ぬ気持ちでやります」というような言葉を死ぬ気もないのに使う羽目になる。

「ギリギリの最後に命をもってしてもやりぬきます」そんなに会社ごとき出使用されている人間が命をかけてなんてつかうものじゃない。

そのままでいいのだ。ハゲができて鬱になって、それでもがんばるなんてできることじゃない。特攻隊の一員にさせられている。

勝つことだけが人生じゃない


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NinjaGPZ
性別:
男性
職業:
迷いや
自己紹介:
19で双子の片割れとなる。不惑にてまだ迷い、
冥界と現実世界を行き来し、いまだに形とならない創造力が俺を圧迫して、不安にさせている。誰からの許可が要るのだろうか。
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