~神への帰依の模様を日常からの問答から導き出します~
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夢をかなえる空間という場所は存在するのだろうか。
例えば日本では多数の有資格者がいるため、競争も激しく、トップにたつには才能のほかに運も必要だとする。しかし、あるもののトップに立てていない才能があることは否定できないものだ。 トップにたつものの才能や運、かたやトップに立てない才能や運 トップに立つものだけが生きていけるのだとしたら、 トップに立てないものは生きていけないことになる。 多分とても極端な事例だろう。 ここ日本は、競争社会だ。 トップに立てないものは、どうするのか。 俺が思うには、トップに立てる場所に行けばよいという考えだ。 ある場所では中間クラスだとすれば、 その資格者がいないところではトップになれる。 それは、日本ではなく、例えば海外のどこかだとする。また地方のどこかだとする。 競合他者が存在しないのであれば、トップに立てる。 ある意味弱い犬的発想かもしれない。 あるものは、「何が何でもトップに立つ」という気概で望むのが大事だという。これは嫁様である。 しかし、俺には、その気概がない。がんばってきたはがんばってきたが、これ以上もう飽きてしまって上を狙うには費用も時間も、情熱もいる。情熱がまずないのにもかかわらず、費用も時間も工面できるわけがない。 だから、弱い犬のごとく、なんとかやっていける、生きていける場所をさ迷い歩くのだ。競争に負けた者。それは生存権以前の、社会的敗者である。 俺は競争してきたのだろうか。 自分の考えを他人のせいにして、つまり兄の死が原因だとして、勝負してこなかったのではないか。 もしそれが正しいのだとしても、情熱は俺の中には見当たらない。なにがなんでも一番になる、というような気概は存在していない。 存在しているのは空・無である。 いつもこれが心に存在しているのは、先天的な自分自身の特性なのか、兄の死によってもたらされたことか。わからない。ただ、昔占い師に見てもらったときには、兄の死に原因を摩り替えているといわれたことがある。 しかしだ、それは認めよう。兄の死によってすべてが進まないと思っているとしよう。だからといって、何を心の中心にすえて生きていけばいいのか。 世界平和か。社会環境か。人生の高閲か。 現実世界と接点をもつのは紛れもなく俺自身の世界-内-存在である。 実存という概念がある。 マルチン・ハイデガーがフッサールの現象学からくみ出したものだ。人間自身に直面する現実的な事実・それは自身の死である。死があることを覚悟し、実存として現実生活を生きようとすることを言っていた。 死の覚悟。それはできているようでまだできていない。自分は明日も生きると思っているようだし、死はまだ遠い先のものと考えられている。 これはいわゆる平均寿命などがニュースや医学的に言われているからであるが、そうでなくとも40にして死するもの、癌になったりするものもいる。 ながらえて90過ぎまで生きていくものもいる。現実を短期的に捉え、緊急的なものと捕らえれば、死は側にあるのか。気長に気楽にと考えることは死を遠くにあるものとするのか。 これ自身の答えは、生きている自分にしか分からない。 不安な気持ちになる場合、脳の器質的変化によるものか、例えばコーヒーの興奮作用が沈静してきた際の状態から発生するのか、欝であるということは、コーヒーによる沈静化が存在の不安にまで感じられることはあるだろう。 しかし、器質的でなければ、気分的なものと考えられる。先行きが豊かに思える人、先行きが暗く思われる人、その思考のスタイルによってうつ病などがでるとすれば、後者は、高揚し続けなければ脱却できないということになる。それに対して現代医学はSSRIなどの精神薬を使うということになる。 「死ぬ気でやります」などという言葉は、不安の中から光明を見つけましたといいたいために嘘で言うのである。特攻隊に死ぬ気で行って来いとはいうまい。それは「死なない」事を前提に言う言葉だからである。 そうでなくとも、死は存在している。死なないということは一日たりともないのである。日々死んでいる。日々死に近づいている。それを自覚したときの人間のあせりが、仕事のエネルギーになるものか。 「死んでなるものか」と思うときは、個人の死特に、肉体的な状況、緊急的状況に思われてくるものである。競争というのは、ここまで人間を追い込むものなのだろうか。 ふと我に返ってみる。 勝たなくてもいいのではないか。ほっといても死はやってくる。 だから、死が来ることをほっといてもいいのではないか。 自然と歩み寄ってくるのだから、自覚したからといって、タバコを控えるとか酒を控えるとか少しは医学的な死の忌避手段はある思考かもあるだろう。しかし、それは数年をどうするか程度のものしかない。 勝とうとするから辛くなるのである。ほっておくのが一番良いのである。勝手に向こうから死がやってくる。 死の決意をもってことに望むことをハイデガーは言ったが、これは死を目前にした焦り、焦燥感からくるニヒリズムであり、精神の正常ならぬ異常興奮が肉体や、精神に作用し、生きている実感を持たせるような行動を社会規範に則って行わせるという人間性善説に基づいているものと思われる。 しかし、必ずしも人が死を前にして正常な神経伝達を行うとは限らない。焦り狂って自決するものもいるかもしれないだろう。他者をまきぞえにすることもあるだろう。ハイデガーの思想の中には、表現として「詩」を実存手段としてあげている。 文学的に生きていることの表明は確かに詩しかない。それにメロディをつければ、曲になる。しかして、それを表現する手立てはあるのか?俺が詩を書いて、売れるのか? 実存については、売れていなければ、個人的実存も社会的に達成できない。 社会的に達成しなくても良いのであれば、詩を書いていればよい。機械的社会性の一部としての労働として機械的に生きている反面。 それではおそらくダメなのだろう。実存していないことになるのだろう。個人の主体性が社会の必要性と一致していることがなによりも実存を達成するのには必要な要素なのである。 ここがダメなら、あそこがある。あそこがダメなら、こんなのもある。 これができるテーブルのようなスペースが、生きている場所になれば、 何も悩むこともないのだろうに。 クリックしていただけるとやる気がでます。 ![]() PR ![]() ![]() |
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