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~神への帰依の模様を日常からの問答から導き出します~
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ストレスマネージメントというものがあるらしい。
自分のストレスの管理ということで、どこに考えの転換をもたらすかその習慣を獲得するようなレッスンみたいなものだ。
今はこれに興味を持っている。しかし、予算的なものが整わないために、すぐこれらを習得する環境的要因が揃っていない。

そこで、哲学のフッサールという学者が言ったことを元に感情の揺さぶりをなくする手立てをあるブログの引用から考えてみた。

存在の定義「常に、既に、ここに、私はある」

現象学的還元でフッサルが言った言葉だ。
現実存在を定義するうえで、ありとあらゆる学説、主観、意見、感情などをカッコにいれて、ここに立ち戻らなければならない。予想や推測、感情的な衝動などをカッコにいれる。頭にその余地をまず設けて、思考の一部に当てはめてゆく。それを現象学的還元というが、その還元の上で現象学は始まるのだということだ。

現象学は、科学哲学とも言い、存在を存在そのものにまでもどす方法を表しているが、これに情緒の一つを加えると、心理的な一つの訓示になる。以下の文は、人生訓とも言うべきものだろう。

「君の運命が破れた時は、私の言葉を思い出せ。『運命の良し悪しにかかわらず、全てに満足することだ。』」

すべてに満足する。悪い結果でも満足する。
予期しない結果だとしてもそんなことは関係なく、
今あることに満足すること。これは結構きつい。

運命の良し悪しに関わらず、というところ。
自分の運命がナゼこうなったのかという懐疑や疑問を持つのではなく、
その運命そのものを含めた事象をすべて満足とすることという。

自分が落ち込んだとき、落ち込んでいる自分に満足する。
他人からいやな目にあったとき、いやだな、と思っている自分に満足する。

というくらい、感情的になることなく、感謝でもなく、満足するという。
どんな場合でも常に、既に、ここに私はある という視点からすれば、
それは科学的哲学方法とでも言うくらいなので、
主観や他者からの意見などをもカッコに入れ込んで、事象その①と置き換える。

感情は左右にぶれ、上下に移動するため、空間的認知の世界にある。
その空間的認知をカッコに入れ込んでしまう。

すると自分自身の冷静さを取り戻せることができる。

しかし、哲学的な視点だということから、感謝や満足という情緒の面は、この視点だと発生しずらい。ところが、満足すること、を前提にカッコに入れてみるとどうだろう。

嫌な感情の存在をカッコに入れられた人は「嫌な気持ちがあること」に満足できる。
他人から言語により揺さぶりをかけられたときも、「他者①がこういった」とカッコにいれることで、「他者の存在または言語的示唆」の存在することに満足できる。

他者に振り回されるわれわれは、得てして 快・不快から情緒を高ぶらせてしまう傾向にあるが、「満足」を前提とすることで、この「情緒」の存在があることに対して満足できるのではないか。

器質的な脳の異変がないばあい、かなりきついが、この言葉は非常に崇高な意味合いを持つものだと感じられる。そして、そう感じている自分に満足するのだ。

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夢をかなえる空間という場所は存在するのだろうか。

例えば日本では多数の有資格者がいるため、競争も激しく、トップにたつには才能のほかに運も必要だとする。しかし、あるもののトップに立てていない才能があることは否定できないものだ。

トップにたつものの才能や運、かたやトップに立てない才能や運
トップに立つものだけが生きていけるのだとしたら、
トップに立てないものは生きていけないことになる。

多分とても極端な事例だろう。
ここ日本は、競争社会だ。
トップに立てないものは、どうするのか。

俺が思うには、トップに立てる場所に行けばよいという考えだ。
ある場所では中間クラスだとすれば、
その資格者がいないところではトップになれる。
それは、日本ではなく、例えば海外のどこかだとする。また地方のどこかだとする。
競合他者が存在しないのであれば、トップに立てる。

ある意味弱い犬的発想かもしれない。

あるものは、「何が何でもトップに立つ」という気概で望むのが大事だという。これは嫁様である。

しかし、俺には、その気概がない。がんばってきたはがんばってきたが、これ以上もう飽きてしまって上を狙うには費用も時間も、情熱もいる。情熱がまずないのにもかかわらず、費用も時間も工面できるわけがない。

だから、弱い犬のごとく、なんとかやっていける、生きていける場所をさ迷い歩くのだ。競争に負けた者。それは生存権以前の、社会的敗者である。
俺は競争してきたのだろうか。

自分の考えを他人のせいにして、つまり兄の死が原因だとして、勝負してこなかったのではないか。
もしそれが正しいのだとしても、情熱は俺の中には見当たらない。なにがなんでも一番になる、というような気概は存在していない。

存在しているのは空・無である。

いつもこれが心に存在しているのは、先天的な自分自身の特性なのか、兄の死によってもたらされたことか。わからない。ただ、昔占い師に見てもらったときには、兄の死に原因を摩り替えているといわれたことがある。

しかしだ、それは認めよう。兄の死によってすべてが進まないと思っているとしよう。だからといって、何を心の中心にすえて生きていけばいいのか。
世界平和か。社会環境か。人生の高閲か。

現実世界と接点をもつのは紛れもなく俺自身の世界-内-存在である。

実存という概念がある。
マルチン・ハイデガーがフッサールの現象学からくみ出したものだ。人間自身に直面する現実的な事実・それは自身の死である。死があることを覚悟し、実存として現実生活を生きようとすることを言っていた。

 死の覚悟。それはできているようでまだできていない。自分は明日も生きると思っているようだし、死はまだ遠い先のものと考えられている。
これはいわゆる平均寿命などがニュースや医学的に言われているからであるが、そうでなくとも40にして死するもの、癌になったりするものもいる。
ながらえて90過ぎまで生きていくものもいる。現実を短期的に捉え、緊急的なものと捕らえれば、死は側にあるのか。気長に気楽にと考えることは死を遠くにあるものとするのか。

これ自身の答えは、生きている自分にしか分からない。

不安な気持ちになる場合、脳の器質的変化によるものか、例えばコーヒーの興奮作用が沈静してきた際の状態から発生するのか、欝であるということは、コーヒーによる沈静化が存在の不安にまで感じられることはあるだろう。
しかし、器質的でなければ、気分的なものと考えられる。先行きが豊かに思える人、先行きが暗く思われる人、その思考のスタイルによってうつ病などがでるとすれば、後者は、高揚し続けなければ脱却できないということになる。それに対して現代医学はSSRIなどの精神薬を使うということになる。

 「死ぬ気でやります」などという言葉は、不安の中から光明を見つけましたといいたいために嘘で言うのである。特攻隊に死ぬ気で行って来いとはいうまい。それは「死なない」事を前提に言う言葉だからである。
そうでなくとも、死は存在している。死なないということは一日たりともないのである。日々死んでいる。日々死に近づいている。それを自覚したときの人間のあせりが、仕事のエネルギーになるものか。
「死んでなるものか」と思うときは、個人の死特に、肉体的な状況、緊急的状況に思われてくるものである。競争というのは、ここまで人間を追い込むものなのだろうか。

 ふと我に返ってみる。

勝たなくてもいいのではないか。ほっといても死はやってくる。
だから、死が来ることをほっといてもいいのではないか。
自然と歩み寄ってくるのだから、自覚したからといって、タバコを控えるとか酒を控えるとか少しは医学的な死の忌避手段はある思考かもあるだろう。しかし、それは数年をどうするか程度のものしかない。
勝とうとするから辛くなるのである。ほっておくのが一番良いのである。勝手に向こうから死がやってくる。

 死の決意をもってことに望むことをハイデガーは言ったが、これは死を目前にした焦り、焦燥感からくるニヒリズムであり、精神の正常ならぬ異常興奮が肉体や、精神に作用し、生きている実感を持たせるような行動を社会規範に則って行わせるという人間性善説に基づいているものと思われる。

 しかし、必ずしも人が死を前にして正常な神経伝達を行うとは限らない。焦り狂って自決するものもいるかもしれないだろう。他者をまきぞえにすることもあるだろう。ハイデガーの思想の中には、表現として「詩」を実存手段としてあげている。
文学的に生きていることの表明は確かに詩しかない。それにメロディをつければ、曲になる。しかして、それを表現する手立てはあるのか?俺が詩を書いて、売れるのか?
実存については、売れていなければ、個人的実存も社会的に達成できない。
社会的に達成しなくても良いのであれば、詩を書いていればよい。機械的社会性の一部としての労働として機械的に生きている反面。

それではおそらくダメなのだろう。実存していないことになるのだろう。個人の主体性が社会の必要性と一致していることがなによりも実存を達成するのには必要な要素なのである。

ここがダメなら、あそこがある。あそこがダメなら、こんなのもある。
これができるテーブルのようなスペースが、生きている場所になれば、
何も悩むこともないのだろうに。





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没落が何年も続き、望みどおりの人生にならないと人は神を頼るか神秘的なものに依拠するようになる。

占いから始まり、タロット、そして中国風水、方位学。
これら未知の示しというものは、
カール・ヤスパースのいうような「神の暗号解読」であると俺は考えている。
いや、そう信じていると行ったほうが良いかもしれない。

物事には意味があり、すべては必然でつながっている。いや、偶然だ、と考えから逃れたい意思もある。なぜなら、論理的必然、因果関係的必然として兄の死が自分の人生のなかで結論がついていないからだ。

たとえば、必然が悪的状況になったとした場合、仏教的にはカルマや因縁によるといい、方位学では大凶方位の連鎖だという。

カルマが原因である場合は、人に施しをし、お布施を熱心にし、念仏を唱えすべてを受け入れるようと説法される。

大凶方位の連鎖が原因であれば、年の大吉方位へ四泊以上し、厄を落とすと、吉方位が潜在的な細胞単位での能力の最大発揮がなされるという。また、その場合、金持ちであればあるほど、休みを自分で取れる状況を作れ、大吉方位に行くことができることから、金持ちはますます金持ちや人脈に恵まれる、という。

兄貴が死んだ原因を俺自身、様々考えてきた。

俺自身が大学に行き始めたときに兄は死んだ。スンドメを食らったようなものだ。スンドメパブがあるというが、行きそうな時に、パッと離れる。もやもやとする。半分怒りにも近づく。俺がスンドメを食らったのはなぜか。それは俺が大学という費用のたくさんかかることをしようとしたから兄が家から学費をだすことを不安がってその保険金で大学にいけるようにしてくれたのか。
ならば、大学に行こうとせず、高校を卒業して就職すればよかったのではないか。という概念。

兄は実は純粋無垢であり、俺のように大学でモデルもやり、オンナをとっかえひっかえしようと考えていた事実無限の悪いカルマ拡大の欲望がなく、現実世界に嫌気をもたらしていた。優しい人ほど早く死ぬというカルマの視点。俺の大学に行く本当の目的が、オンナと遊びたいということにあったことを知覚させるために兄を殺したという視点。これは自責と自傷に繋がっている。

兄が大凶方位を繰り返し取ったための最悪の結末として交通事故にあったという方位学の視点。これは事実調べてみたが、そのようには考えにくかった。

ここでは三つくらいしか上げていないが、様々なことを考えて来た。
二十歳そこそこで、人生の分岐点を味わってしまい、楽しいはずの大学生活は、一転し、半ばノイローゼ状態の大学生活を送らされた。あれだけ勉強してやっと手にいれられた自由。それが不自由に変わった。
自分の決断によりノイローゼを選択した訳でもないが、「貴方と付き合いたい」というオンナから離れるようになってしまっていた。彼女を持ったこともなかったのに、チャンスを捨てて捨てて捨て去ってきた。裏には自分の困惑している状態すら理解できない奴と付き合えるかと怒り半分混じった人間関係。それが今も続いている。

何をもってしても、兄が死んだことで、俺は自分の欲望をかなえられるような性格からはかけ離れてしまうことになる。経済学部に入学して国際関係学というものを学びたいと思っていた。将来は商社に入り、海外を飛び回る仕事につきたいと考えていた。
もちろん、その当時は、単に希望というものであり、仏教的な考えや哲学的な考え、方位学的視点などもちあわせていない。兄の死と引き換えにこれらを獲得したのか。そうなれば、これらが必然に学ばされることであったのか。

因果関係という言葉がある。社会科学でもこの因果関係は大事な要素であり、原因と結果との相関関係を歴史社会的な視点でとらえようというものである。
資本主義という概念は、プロテスタントの富を蓄えることは神からの祝福であり、神に人生が神の意図するように進んでいることを示す救いの免罪符である。貨幣は免罪符としての意味を持っている。というのがそれだ。

方位学もやってみた。占いの通りラッキーナンバーにかけてみたりギャンブルもしたりした。うまくは行かない。占いの言うとおりのことをしてみても、なかなか思うようにならない。今回仕事に就くことになっているが、これも因果関係があり、兄の死を超越するような完成形としての出来事なのか。多分違う。

兄が死んだことは、悲しみもあるが、仏の意図を学ぶための出来事であったとしても、それに起因する経済という貨幣がもたらす免罪符は与えられていない。
哲学や倫理学、占いなどで飯を食っていけなかったのは自分に劣点があり、まだ学びが足りないという意味か、それとも違う才能があるのにもかかわらず、死や哲学など形而上学的な空中楼閣を描いている時点で、神の意図から外れていることを示しているのか。

懐疑としてこれらはかなりの容量を持っており、これだけを考えても一生が過ぎてしまう。しかし、それをしている限り、結婚や就業などからどんどんと離れてしまう。子供の頃から思っていた「車を買いたい」「海外旅行に行きたい」など現実世界の欲望からも離されてしまうと思った俺は、結婚をすることにし、嫁を得て、仕事を思い切ってすることにした。

しかし、潜在的にどうしても向いていないように思う。こんな思考状態が毎日続いて、無限地獄とも生きる屍ともいえるようなものだから、現実生活すら送るのが辛いのである。しかし、自身で仕事を作り出す脳の潜在的余力はないようだし、一発逆転の切っ掛けも見当たらないできた。そして、体たらくなサラリーマンを選択する以外に道がないような状況になっている。

意図と事実は何がどう絡んでいるのか。俺の意思や意図は無視され続けてこれからも生きていくのか。
これについてはどの友人も話をすることができない。そこに孤独が存在している。
この孤独がある限り、他人とは生涯交わることができないだろう。


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 大学に進学したいということについて、父からは「なぜ大学に行きたいのだ」と聞かれる。俺は「勉強がしたい」と高校に行くときの理由と同じことをいった。実際、もっともっと社会勉強したいというのもあったが、哲学も勉強したいというのもあった。その反面、モデルで仕事をして、一人暮らしを満喫したいという裏の目的はあったが、当然父親には言うはずもない。大学に入って、身体を鍛えて、モデルをやる。

これが俺の大学時代の目的&家を出る要因だった。
兄は宅配便の仕事をしていて、俺は大学受験を現役では三流大学しか受からなかったので、東京で寮生活の浪人を送ることになった。
だから、話をすることもなく、元気なのかもわからない。

「遊びに来い」としきりに兄は言っていたが、受験生で失敗の後がもう残っていない俺は、とにかく勉強をしていた。

特に国語がダメで、偏差値でいうと40程度しかなかった。他は60以上あったのに、国語が足を引っ張っている。だから国語の論文を買って読んだりしていた。何を書いているのか中身が良くわからなかった。

予備校というと18歳の人間が行くのが普通だが、東京の高校生で懐疑的な奴は、サルトルの嘔吐を呼んだり、当時の文学者小林秀雄を読んでいたりしたというのは大学に入ってからから聞いたことだ。

 田舎は雪国。四季が明確で、夏は短く冬は寒いうえ辛い。スキーは幼少からしていたので、スキーができない転校生は不思議ちゃんの対象だった。しかし、高校でスキーができるからといって、それでプロスキーヤーになるというような気概を持った人間は一人もいない。勉強といっても、進学率が全国下から二番目なのだから、自然でのびのびとしているという反面、勉強なんてという風潮もあった。

 丸山政雄だかという論文を読んでいたが、視点もわからなければ、書いている内容もわからないが、とにかく読んでなれることに専念していた。

 予備校の寮になんてはいると、当然だが、門限があり、朝・夜の食事時間が決まっていた。それはそれで都合の良いシステムだったが、そのルールのなかに「他人の部屋に入ってはいけない」というものがあった。

しかし、人をひきつけるというか、断りきれない人間もいるもので、ある寮生の部屋に多数入り浸り、勝手にベッドで寝ている奴、漫画を読んでいる奴など、あれはなんていうのだろう、便利に遣われていたとでもいうようなことがあった。

 彼は、結局大学一浪ではうからず、二浪したが、それでもダメで、法政大学の通信課程に入学していた。俺たちが悪かったのか、どうなのか、それは最期は「自分の成績」が決め手になるために、個人主義がまかり通っていた。


 考えてみると、人とまともな時間を過ごしたのは、予備校時代が最後だったのかもしれない。
 それなりにともにがんばろうという人たちが一つの目的に向かって他人を蹴落とすためにがんばる。高望みしなければ大学はうかったかというと、当時は今みたいな倍率ではなく、40倍とかが平気でつくような時代だったから、受かればもうけものの感も否めなかった。


 ある日兄貴がバイクで寮に遊びに来た。寮は親類までなら書面を出せば部屋に入ってもいいのだということで、兄貴は部屋に入って何しているかというと、バイクで2時間近く走ってきたから、遠くて疲れて寝てしまっていた。当然寮生は、「兄貴がきているの?あわせて」とオンナっけも悦楽もない男子寮生は、勉強以外を求めているのが良くわかった。数時間寝て、「帰るわ」と兄は帰っていった。
それが兄貴とのまともな付き合いの最後だったのかもしれない。

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ウツにて前職場を辞めざるを得なくなり半年以上治療というのか、ぼやけた日常&カネない生活を嫁と送ってきた。
1月かかって某団体職員に採用が決まりそうだという連絡を受けた。正式には今月末の決定で、来月2日から勤務になることがほぼ決まりそうだ。

朝六時半におき、七時半には出る生活が没落的に始まる。
人によっては朝もっと早い人もいるだろうし、遅い人もいるだろう。平均タイムシーク(通勤時間)は1時間ほど。
早速勤務という前に、なんだか組織の説明を受ける研修があるとの事で、それが月末にあるとのことだ。
俺は基本的に残業が多いのは好きではない。残業手当が出るとしてもだ。
仕事の量が多い場合は、上司に問題がある、つまり企業体制自体の問題だ。
自分の能力を超えている場合は、自分に問題があるわけだから、自分で調整可能であればなお残業も調整も可能だと思う。

半年間の風来坊。いや、疾病期間中、良いのか悪いのか。
良いのは自由だったことだ。悪いのは自由でなくなることだ。
自由を売却して、カネを得る。マルクスのいうように労働力以外に売るものがない人間が、労働者と呼ばれるのだ。紛れもない労働者。資本家ではない。

医療を学ぼうとしてから学び既に十年以上たってしまった。俺の資格は指圧マッサージ師。正式には「国家資格 按摩・マッサージ・指圧師」という。これは別にまたいろいろな出来事を書いてゆくつもりだが、予備知識として書いておくと、大学ではなく、三年制の専門学校である。専門学校を卒業すると同時に、この資格の受験資格が得られて、国家資格試験を合格したものに、免許を付与する。そういうシステムのもとにある。

学的内容は、解剖学、生理学、臨床医学、衛生学、医学概論、東洋医学概論、経穴経絡論、など医療の基本的底辺は網羅していると俺は思っている。実習は、各生徒同士で、号令にあわせて指圧の施術手順を身体で覚えさせる形式。俺は浪越学園という「指圧の心母心」に引かれてそこの学校に入った。
厳密には、経絡と指圧のポイントとは噛み合っていない。

更に細かく言えば、経絡指圧という手技がある。
それに反して筋肉指圧とでもいうのが浪越指圧がある。
アメリカで指圧というと、経絡指圧というのが普通だという。

当然の話だ。目に見えない経絡経穴の不可分・過分を施術師が把握して、不足には補い、余分には排除するという気の多寡に調整ができるという至極、相手にとって論理的でありかつ理解しやすいものだからだ。
 余談はこの程度にしておいて、一応哲学的思案から医療としての知識が不足していることを通じて指圧師になったわけだが、根幹である哲学の思案への帰巣はまだ行われていない。今世相で人気なのは、科学者であり、科学者が物質の存在から、このような思念になるというような因果関係を解き明かすことだ。哲学者は、哲学的直観とでもいわれるイデアに基づいて理論を構築していく。
 その対象が、自分にとって、まだ戻っていないということだ。いや、忘れたことはないが、理論体系として語るには少し医学知識も足りないような気もする。

長くなってしまった。
仕事に就くということは、欝の可能性もまた浮上するということだ。何かがんばったならがんばったなりの報酬がない限り、欝は転換できないと思っている俺は、残業代をすべて俺の小遣いにするように嫁様とひと悶着起こさなければならないと思っている。


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ニュースを見ていたら、こんなことが書いてあった。
少しだけ救われたような気持ちになったのでその記事を掲載します。


田中ウルヴェ京(みやこ)さん
「ソウル五輪(1988年)のシンクロ・デュエットの銅メダリストという過去を引きずることから解き放たれた時に、生きる道が見えてきました」

シンクロ引退後の人生設計が見えないまま、24歳で米に語学留学した。「図書館で手にした心理学の本の一章がその後の人生を決定しました。『人生は、勝つことだけがすべてではない』と当時の私には信じられないことが書かれていましたから」と笑う。

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無意識にわれわれ人間は、特に日本で教育を受けてきて育ってきた人間にとって、「相手を蹴落とし、自分が勝ちあがる」という右肩上がりの図式をインプットされてきたのではないか。
さっき公園を散歩していたが、訳もない不安に襲われた。

不安は存在の不安である。
「このままで勝ち組になれるのか」とか
「やりたいこともできないで生きていくのか」
など言葉にならない複雑な不安だ。
「このままでいいのか」
という問いについては誰もが思い悩むことだ。
当然自分もその強い信仰者の一人だ。
神に願いをかけ、神に祈り、としてきたこともある。

「このままでいい」

そういう心持は誰か教えてくれるだろうか。

誰しもが人と話すときは、教育勅語的な右肩上がりの成長論をベースとした根幹があるため、

「お前そのままでいいと思っているのか。きちんと就職して、きちんとしろよ」

と 親友 は言うかもしれない。果たして親友なのか?

むしろ
「何かしないとならないと思っているみたいだが、何もしなくても良い。そのままでいいのだ」

というのが親友ではないのか。

しかし、どうしてこのような言葉を言うことができない社会になっているのだ。

国の話で恐縮だが、赤字財政を「何とかしなければならない」とハヨシネ保険を導入したり、税金を引き上げようとしたりする。これは日本人の特攻隊的な思考と同じだと思っていいだろう。土壌が同じだから、憲法が変わろうが、土着的性質は変わらない。
他人に土地を騙し取られないように、何とか対策を練らなくてはならない。そういう島国根性が根本にあるものだから、潜在的に「なにかをしなければならない」という気質は拭い去れないのだ。

特攻隊的な思考とは、ギリギリまで節約をして、最後は丸投げするということだ。
やられてまでも、負けが決まってまでもなお「なんとかしないとならない」のであれば、「命を懸ける」のが当然だ。
だから、「一生懸命がんばります」という言葉が普段から使われ、「死ぬ気持ちでやります」というような言葉を死ぬ気もないのに使う羽目になる。

「ギリギリの最後に命をもってしてもやりぬきます」そんなに会社ごとき出使用されている人間が命をかけてなんてつかうものじゃない。

そのままでいいのだ。ハゲができて鬱になって、それでもがんばるなんてできることじゃない。特攻隊の一員にさせられている。

勝つことだけが人生じゃない


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2008/05/19-11:32
少女派遣かたり買春客だます=写真置き誘導、現金詐取-男逮捕・警視庁

 インターネットの出会い系サイトに「少女を派遣する」などと書き込み、児童買春を求めて連絡してきた男性から金をだまし取ったとして、警視庁は19日、詐欺容疑で住所不定、無職伊藤達夫容疑者(43)を逮捕した。
 伊藤容疑者は、ネット上に掲載されている少女の写真を勝手に印刷するなどして、派遣する少女たちだとするアルバムを作成。アルバムを都内の自動販売機の下などに置き、サイトを見て連絡してきた男性をアルバムを置いた場所まで誘い出し、好みの少女を選ばせるなどした上で、アルバムに代金を挟むように指示し、後で回収していた。男性には別の場所で待つように言い、実際には少女は派遣していなかった。
 伊藤容疑者は「200人以上から計1000万円だまし取った」と供述。同庁は、利用者が被害を訴え出にくいことを悪用していたとみて余罪を調べる。

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頭がいい。アナログとデジタルの融合的犯罪だ。
デジタルでは人はやるかやらないかの選択に迷いがないが、デジタルが言ったから、間違いはないと言われると辟易してしまう。
しかし、ネットに散らばる無数の少女写真を、風俗の写真アルバムに作成しなおし、
実際の要望に対してはそれはしない。法律上の問題もあるだろうが、
心理を悪用したということだと書かれているが、心理を無視した悪行もある。

グッドウィルの工場派遣に自分は一度いったことがある。
前日の午後11時に電話がかかってきて「明日の七時にどこどこですがいけますか」
と担当は言ってた。カネがなかったので、「はいやります」と言って、次の日現地に自前の電車賃で行った。

そこには十人くらいの若い者がいた。
現場まで行くと、「今日は仕事がないんですよ」といわれた。
それをだれかがグッドウィルに電話したら、「今日は待機ということで、交通費の支払いはいたします」だという。
当然交通費を給与支払日に請求したが、案の定、何とか手数料150円はとられている。
派遣だからどうしたという以前に、「仕事をする確約」をもって現地に行った人間に対して、電車代しか支払わないということはどういうことだろう。少なくとも日給の最低賃金法に基づくくらいの金額~少なくとも四千円~は事業派遣元は支払わなければならないはずだ。こういうことはおなだめで、文句も出ないように、弊社ではそういうシステムになっています、のごとくの口調にはあごが外れるくらい呆れてしまった。

これに俺は非常に頭にきたので、以後一切関わらないようにしていたが、まああの不祥事を起こしてしまっているのだから、こんなに人材派遣される人間をなめ腐っていては当然だと思う。

ぜひ再起しないでほしい。
この会社グッドウィルは、ルールを破って、負い目を背負ったわけだ。
人というのは、企業もそうだが、まもらなければならない最低ルールを自分で決めている。ルールよりも厳しいルールを自分に課している人もいるだろうし、社会ルールよりも陥落したルールを立てている人もいるだろう。

ルールというのは自律 であり、倫理性の確立に際して打ちたてられるものである。
俺自身が、東洋医学で人のためになろうと確立して学んだことが、実際の治療院などでの勤務には「重労働低賃金」であることも知らずに進んでいた。
最初から分かっていればやらなかったかというとそれも、当時の哲学的思考からは思いつかなかった。

三年半働いて、失業保険、厚生年金など一切の加入はなし。
給与は二十万いくかいかないかで日曜のみの休み。
「労働力だけよこせカネは払わない」なんじゃないかとおもったものだ。
これについてはまたページを変えて記述したい。
「行きたいという意思を持ったものが高校にいくものだ」という父に対して、俺は「勉強がしたい」という答えで望んだ。

兄はどういったか記憶にないが、あまり中学時代は彼は勉強をしなかった。
少年自衛隊という受験もしたが、落ちていた。

「あんたなら受かったんじゃないの」
と母は言っていたが、多分そうだろう。

俺も兄も地元の公立高校を受けた。
結果は二人とも合格。

兄は一応、滑り止めとして、
勉強しない人たちが行くヤンキー養成場のような私立工業高校も受けていたが、
そこも合格していた。よく受かったものだという感がある。
ラジオで合格者名簿を聞いていた俺は、なぜかよかった、、と思っていた。

 「行きたい者が行っているはずなのになぜルールを守らないのだ」
父は厳格であった。兄のタバコに対しては単に高校そのものを遊びの場所と考えたのだろう、辞めさせることになる。

彼は辞めた後、当然だが仕事などある田舎ではないから、東京へ働きに出ることになる。普通免許くらいないと仕事にならないだろうと、父は兄に免許を取らせた。

しかし、兄がいなくなることに俺はかなりてんぱっていた。
同じ高校に通う同学年の兄弟の兄がやんちゃして高校を辞めさせられたということで、同じやんちゃ仲間も残念がっていた。

 それというのも中学のとき俺はかなり兄に助けられていたからだ。

兄は番長風格で、俺はその弟としてひ弱な身体をしてめがねをかけていたから、軽いイジメみたいなものに(半分冗談だとおもっているが)会いそうになっていた。
兄がいたから、ほとんど軽いものですんでいた。

そのとき俺は、精神的にはただ漫然と与えられたものをやるだけしか考えていなかったから、自我や自立心など皆無で、テストで点数を取ることが自分の存在価値だとすら思っていた。そんな過保護な支配下にあったのだ。

 高校に入ると自分の自我が出てきた。

劣等感は身体的なものであった。メガネはコンタクトにして、
それなりの今で言うイケメンになっていたのだ。告白されたことも何度かある。
しかし、色気もまったくなく、性の芽生えもない俺にとってあったものは、勉強をしなければならないという責務と、極度の貧弱な身体だった。
ガリガリにやせて、赤血球が常人の半分しかないという重度の貧血をおこしていた。
それが治って、金がほしくて仕方がなかった。自分の劣等感を超えるために、プロレスラーや北斗の拳の影響から、またブルースリー、ジャッキーチェンなど肉体的な美しさに憧れた。部屋には案内書を取り寄せた際のおまけのボディビルダーの写真を壁に貼っていた。

カネを稼ぐために、選択肢はなく、新聞配達をした。
しかし、高校の小遣いでは買えない二万円という高額商品を買うために、通学、バスケット部、新聞配達とこなしているうちに、急性腎盂腎炎になり、たった二週間でやめなければならなくなった。

 先天的に身体が弱いのだ。そのバイト代は九千円。
貯めていたお金とあわせて結局バーベルセットを買った。
そこから俺の自我が構築されていった。

 東京に出て宅配便の仕事をしていた兄は、本当にほしかったのだろう、バイクを買った。中型免許も自分で取ったのだろう、ホンダのバイク、カワサキのバイクと乗り継いでいたらしい。兄はバイク、俺はウエイトトレーニングに明け暮れていたとかってに考えていた。
しかし、一人で高校に通わなければならなくなった俺には、守り神がいないのと同じく、自分で自分の身を守り、誰に相談することもなく自分で将来のために勉強をしなければならないという軋轢が生まれていた。

いろいろなバイトを大学生なったらするんだとそんなことを夢に考え、大学時代にモデルの仕事もしてみたいと漠然と思っていた高校時代。華々しくはなかった。

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「運が良くなりますように」
とよく神社や占い師にお願いすることが多いのは大衆的心理。
しかし、
その人の運が良くなるということは、
需要と供給の関係のように、
だれかの運が悪くなることを前提としている。

これだけみると、
運が良くなりますように。受験に合格しますように
などというお願いは
自分勝手この上ないものだといえる。

裏を返せば、「誰かが没落しますように」「だれかがおれの代わりに落ちますように」
ということであり、暗にブラックマジックと同じだと分かると思います。

だれかが失敗しなければ、
簡単に言えば、
事業に失敗して、借金を作ったとしたら、その返済と利子のために「金融会社」は潤う。
金融会社や金貸しが「事業が拡大しますように」とお願いすることは、
「社会的に事業が失敗し、借入金が増えますように」
ということと同じである。

人はそれに気付かず「神は全知全能。私の願いを聞いてくれる」と自己中心的な志向に陥っている。しかもそれに気付いていない。

こういうことをMixiに書くと、必ずクレームメッセージが来るので、考えたことはすべてこちらに書き残すようにしたいと思う。いや、そう決めたのだ。

だれかがベンツを購入できるということは、だれかがホームレスになっていなければならない上に、借入金もあり督促もはなはだしく行われるという図式が成立している。

勝ち組・負け組みと言う振り分けは、あくどいかなさけないか の振り分けでもある。
契約を取るためには、また契約をたくさんとり優秀な社員とならなければ、
契約を取れない人は役立たずの烙印を押される。
向いているとか向いていないという話ではない。
人を欺けるか、嘘を正義として貫けるか、それができないか の違いである。

今さっき、私も自分の不遇さに涙していた。
こんなボロボロの精神状態でも、馬車馬のように働かないと生きていけない社会

当然、嫌になるのが普通である。
当然、他人が幸せに見えるのが普通である。
当然、カネが幸せの根源だと思うのが普通である。

成功するには、人を欺き、いらないものをいるように思わせる心理術など本もあるが、商事会社などでは「アフリカに暖房をうるにはどうすればいいのか」とか考えるらしい。そもそもこんな問いを考えるのが奇抜なアイデアとか、才能とかの指標になること自体がおかしい。

欺けない人ほど自殺をしたり失踪したりする。当然だ。嘘をつけないために、生活ができないわけだから。

「嘘を本当のごとく平気で述べられる人間が成功する」

などという人生指南書を見たことがあるだろうか。
婉曲的に、人に買わせる心理術 だとか 自分の意見を納得させる術
だとか、結論的には上に述べたような嘘を平気で本当のごとく述べられるようになるための、道徳的、人倫的な 素直であれ、人に優しくあれ、などとは逆行している。

それがビジネスという名前で通用している。
俺ははっきりいって、そんなあくどいことと思っているくらいだから、出世はしないのだろう。社会的にも底辺間近だといってもいい。

まじめに仕事をして「欝」になり、嫁様に休業手当の保険手続きを放置されて手当てを切られて、やむを得ず、働くことができるふりをして、ハロワークにいき、失業手当と就職活動をする。

これは、俺がもう少し休んでいたい という正直な気持ちに逆行する点から言っても、「自分の意見を通すには」などという指南と同じ事をされたといっても良い。
俺は、俺で俺の心理があり、葛藤があり、薬を飲まないと手足が震えるという症状がある。それらを一切無視した 強行採決である。

しかし、そんななか仕事が決まって、当然ながら、拡大不安症候群である。
以前食らったパワハラがまたあるのか、徹夜も平気でやらせる会社なのか、
モラルハラスメントなどで無下に非難などされるのか、そもそも通勤に一時間以上かかる肉体的条件が揃っているのか。

だから、家で仕事をしたい。
そのためには、家でできる十分な技術などがあるのか。
あるはずがない。その技術獲得の時間は、神経症状で苦しんできた時間だ。
ノイローゼで頭を割られたような状態だった。
父や母にこのことをいまさら話して、「じゃあ仕事しないで家に帰りなさい」と
いわれることもない。父母も高齢になってきている。俺は結婚をしている。
俺が仕事をしないと、つまりは何事も・・・・・・言葉に詰まる

運というのは総量的なものであり、過分・不可分は均衡が取れている。
先日まで、大金の持ち主が、株価の下落でホームレスになる なんてよく聞く話だ。
しかし、ホームレスに近い人間が、大金を得るということだ。

だったら願うのは「俺をホームレスにしないで下さい」と神に祈るしかないのかもしれない。
俺は神がいつもニコニコとしていて光明を与え続けてくれているものと信じていたが、事件があれば、いずれそうなっていたことが今でてきたのだ、とかいうような占い師は信用したくない。神は非情であり、つねに光明など与え続けないのだ。
指令だけを出して「やれ」というようなものだ。
人の負の面を神の信仰で陽に転じられるのは、楽しい人間といる、自分が楽しいと思えることに触れていること以外にないのである。
そういう現実的な贈与もなくして、神様命をありがとうといつもいっている俺は、悪事も起こせない気弱な、貧弱な人間である。

俺はもう具体的に神にいう。
「俺をホームレスにするな。俺を六本木にすめるようにしてくれ。そのために、今六本木に住んでいる人々の 金を俺に回してくれ」
それが世界の平和につながるのかは疑問だ。
世界の平和は戦争がなくなり、統治が行われ、余計な人は罪人として断罪され殺され、民主的な政治状態が整うことを言うのだ。
つまりは、もし為政者が神を信じて板のにもかかわらず、断罪されたとしたら、
そこには「神への恨み」が当然残るだろう。
「神は呪ってはいけません」と宣教師は言うかもしれない。
それは神を中心とした理念体系が崩れること、すなわち宣教師の存在の可否に関わるからである。神を否定されたら宣教師はいる必要がない。転職しなければならない。
そこに神を巡る歴史的な、人為的な 為政がおこなわれていることも覚知しなければならない。



神よ我を助けたまえ  とは、飢えて死にそうな状態に、食事を与えることでもアリ、地震の起こってしまった地域への物資の配給である。しかし、根本的には、個人の力では壊滅的な打撃を受けてしまった地域の復興はムリである。人と人との救いあいは、自然災害によって発露される。しかし、個人的な願いやビジネス的なことがら、
ホームレスが生きるには、という問題には、神の信仰が大社長にさせてくれるものとは限らない。

俺の借金、毎月壱万円返さないとならない。
失業保険からとることはできない。
神よ俺の借金をなんとか払うことのできるように、
カネをおあたえください。

この願いが通るのか。
通るなら通してほしい。
自分の責任だから自分でケツをふけ
という神の返答なら、俺は無神論へ逆戻りするだろう。

運とは誰かが得すれば、誰かが損をする。
その得だけくださいという勝手わがままな願いなのである。
神がそれを聞くのかはわからない。


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トリプトファンの代謝は極めて多様であり、また複雑である。大きく分けて、

* セロトニン経路 脳・腸・マスト細胞。セロトニン・メラトニンの合成に向かう経路。
* グルタル酸経路 肝臓。エネルギー源として完全分解にいたる経路。
* NAD 経路 肝臓。NAD の合成に向かう経路
* 蛋白質合成 全身。

の4つの系統に分類される

食品中に含まれるトリプトファンの量
(食品 100 g あたり)[2] 食品名 含有量
(mg)
バナナ 10
豆乳 53
牛乳 42
ヨーグルト 47
プロセスチーズ 291
ひまわりの種 310
アーモンド 201
肉類 150~250
糸引納豆 242
すじこ 331
たらこ 291
白米 89
そば 192

ソバ好きな俺は、毎日そばを食べようかと思います。

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本当は明日から仕事の予定だったが、
先方の都合で二週間後に延期は述べたとおりです。
そろそろ諦めがついてきたようで、
この会社でかんばるしかないな・
と思い始めているところです。

まだ借金もあるし、貯金しないとならないし、家は買わないとならないし、子供は作らないとならない。

そのために、犠牲になるのであれば、それもよしかなと。

不惑で五百万ちょいの年収はかなり安すぎて、タイの人の給料ではないんだからさー
とおもうも、バックボーンが強固なので、社会信用性が高いそうだ。
ちょっと胸を張って生きていけるかなと思います。

実際どのくらい残業があるのか分かりませんし、
不得意な分野の仕事をしながら、システムを構築していかないとならないので、
忙しいのではないかと思います。

後残された二週間。本当はタイ、台湾とか行きたいですが、
半年以上無職であった俺には、その二泊三日で二人、七万円が出せない。
守銭奴にならないといけない。
他人がどういおうが、カネが一番大事だと分かったので、金にはうるさくするつもり。
嫁が、作品として子供の顔を作って来たのはドン引いた・・(´ヘ`;)
子供がほしいのも順番があるからさ・・・
となだめているのだが、人形の生首・・なんと因縁めいた・・・
とかんじている。

昨日に続きワインをのんでしまった。不安に駆られている中、飲んで寝て、
午前0時30分に目が覚めた。それで、睡眠導入剤をまた一錠飲んだ。
身近なカネに困っていると、たいしたことができない
しかし、だんだんと諦めがついてきた。
一員になるのだ。そういう気概が出てきている。


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プロフィール
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NinjaGPZ
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男性
職業:
迷いや
自己紹介:
19で双子の片割れとなる。不惑にてまだ迷い、
冥界と現実世界を行き来し、いまだに形とならない創造力が俺を圧迫して、不安にさせている。誰からの許可が要るのだろうか。
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