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~神への帰依の模様を日常からの問答から導き出します~
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フリードリッヒ・ニーチェ

ニヒリズムの先駆者とはいえども、実存哲学には欠かせない人です。
力への意思と言う言葉で有名で、永劫回帰も言っています。

かならずしも、仏教カルマ的な思想ではありません。

人生はニヒリズムに浸潤されている。この目的も意味もない 無 を垣間見たものだけが永劫回帰という考え方を理解できる。

「われわれはこの思想をそのもっとも恐るべき形で考えてみよう。意味もなく目標もなく、さりとて、無へのフィナーレもなく、不可避的に回帰してくる、あるがままの生存。すなわち《永劫回帰》die ewige Wiederkehr 。これがニヒリズムの極限形式である。無=すなわち無意味が、永遠に続くのだ」

おソロ死すです。

しかし、これを欲するというところが力への意思なんでしょうか。
よろこばしき知識と言う本の中に、「この永劫回帰を、《今一度、更に無限に繰り返して、お前はこの事を欲するか!??》と言う問いが、最大の重みとしてお前の行為の上にのしかかるだろう!」

一切が既に終わってしまったものを、また繰り返すこと、辛い事、こまごました感情の揺れ動き、人生の一切合切が繰り返される。それこそニヒリズムである。。。

「欲したのだ」「私はそう欲するのだ」「私はそう欲するだろう」と言うとき、意志は運命を自分の物として引き受ける。そこに生まれるものは 運命への愛 amor fatiであり、「さらば、そうであるならば、もう一度繰り返してやる!!!!!!!!!!!!!!」
と行って永劫回帰を「「「「「「「「「肯定」」」」」」」」」する勇気。

これが力への意志の全貌です。

私のこんな惨めな思いも、私が欲したのだ!この欝なる感情も自分が欲したのだ。
この四面楚歌の境遇も自分で欲したのだ!

双子の兄が死んだ事、これも自分が欲した事なのだ!!!!!!

死は他人事ではなく、自分ごとである。それを欲したのだ!!!!!!!!!!

なんどでも、繰り返し兄貴を殺すがよい。それでも俺は生きていってやる。

すべては俺が欲した通りなんだということ、また永劫にやってきても、そう。俺はまた同じ運命が良いなと認める勇気こそ力への意志なのだということです。


目の前の石があるとき、そこで止まるのが失われた神をいまだにあたかも神を信じているかのように自己欺瞞の中で生きている人がいる。
石をアタマで割ったりしていく事はできないが、押してみたり、道具で叩き壊そうとしたり、してどうなる?

絶望する。

これこそが人間としての由緒正しい道である。

絶望の先に見えるものが、もしあれば、それは希望なのである。なんとも言いがたい。
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職業:
迷いや
自己紹介:
19で双子の片割れとなる。不惑にてまだ迷い、
冥界と現実世界を行き来し、いまだに形とならない創造力が俺を圧迫して、不安にさせている。誰からの許可が要るのだろうか。
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