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~神への帰依の模様を日常からの問答から導き出します~
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「なぜ私は双子なのか、なぜ双子の兄は死んだのか、それが自分に起こったのはなぜか」

この問いは「天命」または「生きる使命」と同義の問いかけである。

これに対して、社会的に知名度のある人々はこういう

「仕事とは他人に仕えることである。仕事を通して天命が見えてくる」

これを逆に解釈すると

「自分にばかり仕えていないで、人のために何かしようとはじめることだ。」
つまり、
「双子だ、双子だ、なぜだ」と問うばかりでは答え=天命は見つからない。
社会に出て、仕事をしてこそそれが見えてくるのだ、ということのようだ。

更に考えてみると、

「(双子の)天命の答えは、他人にある」ともいえるだろう。

「あなたの(双子の)天命は、私たちには分からない。あなた自身が知っている」とも解釈することがきる。


私にはもはや、私の好きな色や、私の好きな食べ物など、好きな洋服など、は存在していない。

食事の欲求も極度に下がっている。それはいいとして、

「人のために生きることだ、それを通して使命が見えてくる」

これを引き受けたとする、あるいは理性的にでも理解して、実行しようとしたとする。

とすれば、

「何をもってして、人のために生きる材料を持つのか」

が次の命題となる。

それで「社会に出ろ」「仕事に就け」ということの順段階的な論理性をもっているとすれば、人に会え、パーティーに出席しろというのは理にかなう。
そこにいる給仕、バーテン、ホテル支配人、それぞれ多数いると想定(しかできないが)できる人々の携わっている仕事、ホテルの横にある建設中の建物、行く途中に見る銀行、道路工事に従事している人、スイーツを売っている店、店員、酒を売っている店、店員、商品、、、など

外面的なものしか見えてこない。
双子であることはなぜなのか、その使命は何なのか、という問いを常に24時間考えて問い続けることは精神の困憊をきたす。見るつもりはないのか、といわれても、疲れてしまって見ることはできなくなってしまうのだ。

そうなるとそれらは縁ではないということになる。(と解釈している)

しかし、実際に人に会え、パーティーに出席しろということができない私は、

前段階の「社会に出ろ、あるいは社会を教科書と思え(実際、社会に出たが、楽しい読み物ではなかった)、仕事に就け」という段階になっている。

カント曰く「ナニナニしたいからなにをする」ではなく、「汝ただそれをなせ」ということしかいわない。(仮言明法、定言明法)

わずかながらの「社会を教科書として」見てきた経験から、考察すれば、

栄養士になって、医師になってなど時間も費用もかかるものは選択できない。

ただ、フロムエーなどをぺらぺらとめくって、目を閉じて、指先を無造作に指し示したところの仕事をするとかは、やはり、選別が入り込んでしまい、嫌だな、とかこっちのほうが楽しそうだとなってしまう。これも大学時代からそうだった。

私が、アルバイトなどを選んできた視点は、
「人に会わなく淡々ともくもくできる」仕事が多かったように思える。
人と接する仕事として、居酒屋や販売員などをする人もいる中、
私は、私は、人に会わなく、淡々としてもくもくとする仕事を選択してきたようである。

しかし、これは、陰鬱的消極の結果選択してきたものではないだろうか。
兄が死ななかったときは、人前に積極的に出る仕事アルバイトをしたいと思っていたはずなのである。

それが適切かどうかは、次の考察に移ることで判明する。

接客としての仕事としては、指圧があった。
いつ何時人が来るかわらない緊張感は、私を困憊させた。人の存在や考えていることの機敏さが直接心臓に響くみたいだった。

とすると、これはきついのだろう。精神が休まらない。
この時点で、私は精神を非常に負荷をかけている存在だといえるだろう。

それは社会を教科書として読んできた結果、自分には向いていない職業だと考えることができる。接客はだめだと。
カラオケ屋でアルバイトをしたことがあった。給仕である。
当時は指圧学校の夜間の帰り、朝までしていたのだが、だまされていたとはいえ、医学に真剣に取り組んで夢と仕事を達成するのだという意気込みがあった。昼はジムでガッチリと身体を鍛えて、夜は学校に行き、夜中はアルバイトをするという生活だった。アルバイトはなんてことはなかった。と同時に、やりがいも見出せなかった。
仲間がいたことは楽しかったと思った。ただ体力はその時は問題がなかったようだ。

この時点で、人から何かを示唆されるようなことはあったかもしれないが、それは耳に入らなかった。それほどまでに指圧に夢を持っていたからだ。

逆に言えば、アルバイトで生活費のすべてをまかなえたわけでもなく、やりがいも感じられず、接客が楽しいという気持ちも持ったような気もしたが、それを生業にしよう、あるいは天命だと感じられるようなものでもなかった。
仕事として、給仕ばかりだと大変退屈してしまうような気もした。それが社会を教科書として勉強してきた結果だ。(といいたい)

指圧学校当時の生活スタイルはそうなのだが、充実していたようにも思える。ただ、社会的に「仕事を朝から夜までして」というサラリマン的なやらされている感じはなかった。
金銭的にも不十分でも、自ら組み立ててライフを作っているという感じはあった。

とすると「自分で組み立てて生活を作り上げることに充実感がある」と学び取ったことになる。

サラリマンをしていたとき、治験の仕事だが、医学の精神とでもいうのだろうか、医学の神のもと、人類のために投薬される被験者の倫理性と安全性を守るために、ここまでこまかに規定がされている法律、条文を見たときは、すごいことだと思った。これに勤めたいと思った。

ただ、「会社」として働く上では、雑多なことや、夜遅いこと、決定的には、薬剤師のやる仕事を指圧師ができないという結論に至った。会社なくして、この倫理や精神を伝えられればいいのに、とまで思ったが、職務的な薬剤師と指圧師の違いから、どうも忌避されている感じが付きまとって、(これは採用してくれた会社の恩赦でもあったのだろうとはおもっている)、なかなか職務の中の根本的なところに行くことができない。いけるのは間違いなく薬剤師なのであると判明した。(社会を教科書として読んだ結果分かったこととしたい)

筋違いな仕事ではあったが、治験に携わったことで、世の中には倫理性と高邁な精神が生きていることは分かった。ただ、職務ヒエラルキーの細かい医療業界においては、私も指圧師も出番はなかったということだった。ただ、それだけのことである。
薬剤師と指圧師の違いによる職務不可能性の現実は、昨年2008年に如実に露呈した。
12月はこの業界の仕事に応募したが、決まらなかった。もはや無理だろう。

汝ただ、それをやるべし(カント)

寝ても起きても、このことしか考えられないということが、おそらくそれをやるべし賭する事柄なんだろう、と考察する。
今の私には、過去を振り返り、「社会を教科書として読んできた」結果を簡単に書いてみた。それしかできない。

しかし、「働け」という強制以前に、「収入」を確保するためにやらないとならない。今は、「仕事に就く」「収入を一定額毎月入れる」をやらなければだめなのだが、それがカントの言う「汝、ただそれをやるべし」なのでもあると思う。
しかし、俗的に言えば、金を稼ぐのだ、ということが命題だとすれば、なんとも、がっかりしてしまう。がっかりしてしまった。いや、疲れてしまったのかもしれない。
哲学は、ここまででしか解決の導きをもたらさないのか。と思えば、がっかりするところもある。極言して「哲学は何にも役に立たない」ということと類推することができる可能性があるからだ。

しかし、こだわりもあるし、哲学にずっしり身を投げてきた身としては、それは絶対に言いたくない言葉だ。「哲学は何にも役に立たない」と自ら口にいった途端に、虚無に落とされるのである。哲学を学んできた、哲学から敷衍してきた指圧、それらが無の産物であると証明されてしまうように感じるからだ。

「ただしいこと」をしようとするんじゃない「たのしい」ことをしようとするんじゃ

という言葉が昨日のメルマガ良い言葉ネットから届いた。

一文字だけ違うと大きく変わる。

自分にとって「たのしいこと」とは何だっただろうか。

ウエートトレーニングは自分で自分を鍛える楽しいことだった。
人に教えるとか楽しくないのだ。
しかし、なんとかプロのボディビルダーになったとしても(一時期目指していた)、それで食っていける人は、ほとんどいない。アメリカならそれもありらしいが、同じだろう。日本ではプロビルダーとして職業にはできている人はほとんどいない。筋トレのトレーナーとしてやっていくというみすぼらしいことをやり、飢えをしのぐためにやることになってしまうのだ。

努力に対して結果が出れば楽しいだろう。
筋トレの醍醐味は、そこにある。自身の努力が必ず結果として生じる。

ところが、私の場合、指圧が特にそうだが、固い人ばかりが当てられる。固いから疲れる。「身体が少しでも楽になりますように」と四六時中思いながらも、その強度の強いマッサージ特有の疲労感がやってくる。そして、「やっと終わったー」と思うのである。これはやりたくないと思っていることと同じである。ほどなく、同じくらいの固さの人がまた当てられ、身体は疲れているのに、同じ力を出さなければならない。だんだんと「人のため」だとか「身体が楽になりますように」などと思わなくなってくる。「早く終われ」と思ってしまうのだ。本当なら、どんな固い人でも、患者なのだから、どんなに自分が疲弊していようが、「身体が少しでも楽になりますように」と思う気持ちが残存していて当然なのである。しかし、私にはそれがまったくできない。挙句の果ては、嫌になって、「今日は休みます」となり「今日は身体がつらいので早退します」となる。明らかに間違っている。それでいて、指圧師の医療者としての寿命は短いとなる。疲弊するほど固い人ばかりを毎日押していて、年齢も経てくれば、最大筋力は落ちてゆく。患者に十分な圧力を与えられない。最悪だ。おしまいだ。

本心では「やりたくない」と思っているということだ。

結果は金銭で与えられない(給与は医療従事者のなかでも介護と同じくらい低い)、患者は同じ姿勢や労働をするために、また、ノイローゼならば全身緊張していて、また固くなる。だからまた来る。その来るのはうんざりなのだ。治っていないじゃないか!
それで、力の強さで少し部がある私は、「指名」だとされる。院長はお客が来たと喜ぶ。治っていたらまた来なくていいのだ。医療の理想はそこにあるだろう?
おかしいのだ。やりたいはずはない。

これが指圧について、社会を教科書として学んだ事柄である。

金を取って、やるものじゃない、と思ったものだ。
でも、他の仕事につくには
・・・・・・・・

ゴミ箱を掃除したのだが、ふと思った。

「私は人に怒られるのが嫌なんだ、怖いのだ」


そう思ったのだ。

考えてみれば、父親に怒られると、兄貴は、竹の棒でぶん殴られていた。
父に逆らえなくなったはずである。

大学に行ったのが神からの雷で、正しくないことだったのだ、とふと思った。いや、かなりの後悔を持って思った。私が大学進学などしたから、兄貴は死んだのだ。

何か深層心理で、私は、「私が大学に進学したから兄貴が死んだ」と思い込んでいるところがあるように思える。
そうでなければ、兄があのタイミング(入学して一月後の五月)で事故にあうはずがない。気学者に五千円払って聞いてみたら、「悪い方向に行ってますよ」と言われた。
場を濁しているのではないかと思った。たぶん場を濁したんだろう。

次の問題は、「私が大学に進学したから、兄が死んだのか否か」に向かわなければならないのか。。いささか疲れてはいるが、挑まなければ俺が前に進めない。
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迷いや
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19で双子の片割れとなる。不惑にてまだ迷い、
冥界と現実世界を行き来し、いまだに形とならない創造力が俺を圧迫して、不安にさせている。誰からの許可が要るのだろうか。
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