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~神への帰依の模様を日常からの問答から導き出します~
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私の父は、双子の兄がなくなったことにおそらく倫理的な、あるいは精霊的な、更には、因縁的な意味合いを感じ取っているだろう。

私が、大学の卒業論文に「宗教における合理主義と非合理主義」という題材を選んだのについて、「宗教の研究をしてきたのか!」と声を荒げたのである。

父も宗教に関心はもっているはずだ。

その私は、宗教に入ること、また日曜礼拝などに参加したいと思っていたが、

父は、「宗教生活よりも実直な生活」を望んでいたらしく、父に許可などは求めたことはないが、なにか仏教にしろ宗教というものに触れてはならないような雰囲気をかもし出していた。父は、雰囲気から仏教的な感じを受ける。

母はどうかわからない。自己倫理を形成するには力があるのか、自己解決しているのか、わからない。母こそ、いろいろ考えているはずなのである。

父には宗教に入ることをすごく言われた。

フリーターしていて、消息を立ったことがあって、連絡がついたとき、
父が言ったことは「お前が変な宗教に入ったんじゃないかと心配したんだぞ」

という言葉であった。

この言葉からわかるように、「父は私が双子の片割れで、精神的に不安を抱えており、救済を求めていることを知っている」ということだ。

うつ病で会社を辞めるときも、医学的な病状を理解していないとかではなく、この双子の兄が死んだことに対しての弟の心情を察して、特に何も言わなかったのだ。

だから、宗教は 厄介でもあり、布石点でもある。

その次元は父とのためにではなく、まったくもって、

俺の精神・魂の救済のために行い、神の元に帰依するということを哲学から知り、
宗教的な入信をしようと思うことが、父の心配を何かにするということではない。

変な宗教にははいらない。キリスト教に入信する。

神と友にあるという教会に行くことで、一人でいれば、金、将来、未来などで苦渋になってしまい、神を考える精神状態になれないから、強制的に教会へ行き、そこで、
神と一体になりたい。

見えない父と私との戦いは、兄の死によって「宗教」という形で現存している。

しかし、キリスト教者だからといって、何か特別なことをするわけでもないのであり、個人の救済のために人生の時間を教会で少し費やすということ、教義を教わることである。

俺個人は、神に帰依して生きて生きたい。

それをすることができる場所として、キリスト教教会での場所を選んでいくということだ。
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プロフィール
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NinjaGPZ
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男性
職業:
迷いや
自己紹介:
19で双子の片割れとなる。不惑にてまだ迷い、
冥界と現実世界を行き来し、いまだに形とならない創造力が俺を圧迫して、不安にさせている。誰からの許可が要るのだろうか。
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