~神への帰依の模様を日常からの問答から導き出します~
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松浪信三郎の「実存主義」岩波新書 を読んでいると、
昔自分が、これとこれとと思った哲学者、ヤスパースとサルトルのことだが、 無限に絶望的なのがサルトルで「存在の無」の末尾に「人間は一つの無益な受難である」とかいている点、キリストとして生まれた人にたいして、人間は神を登場させるためにあえて「キリストの受難の逆」を行くとある。 発せられた言葉、発明された品物、造られた芸術品、どれもが「それそのものである」という存在そのものに帰してしまい、それが実存を培ったというものでは、歴史的な過去としての意味しか持たない。 しかし、人間は実存している、生きている限り実存する以外にないのだというサルトルは、存在の欠如としての実存に対して、常に暗いのだ。 キリストを背景とするヤスパースとアンチキリストを立て、無神論を透徹するサルトルとは何が違うのか。。。 生きている限界状況を迎えた時、実存が発揮?されて包括者たる「神」の前に立つのだというヤスパース。確かにキリストという宗教の背景にはあるが、多神教は一神教を背後に持ち、一神教は多神教を背後に持つという彼は、何何経や宗教は問われない。その点、包括者という概念は便利ではある。 神人合一を哲学科の卒論で書こうとしていて中退して指圧師になった俺は、 この点、神人合一をなんとか体現したいし、言語化したい。 それこそが神と共にある。あるいは仏と共にある人間であり、かならず人は神人合一であると思うからだ。となってくると、サルトル的な支店に経たざるを得ないのだが、どうも府に落ちない。 キルケゴールやパスカルから出発して、実存哲学のテーマとして、神との前に単独者として立つ事→神の前に人間として立つ事→神は存在していない死に対しての有限性が実存の未知だということ→包括者とともに立ち、他者との実存的交わりを続けてゆく事→神は即自存在、「ある、単にあるもの」としてある。人間は生きている限り自由であり、実存であるが背後に責任という不安を持ち続け、永遠に神とは接点を持たないみたいなこと。 歴史的な実存の流れ、というより、これは弁証法的な発展である。 どれがアウフヘーペンの領域なのかわからない。 私はこの人たちの哲学から自分に合う哲学を探してきた。しかし、キルケゴールのいうこと。これがもっとも人間的であるような気がする。弱弱しい人間は、神という助力を得られずして、生きる事はできない。しかし、神は「これかそれか選べ。躓くのか信じるのか選べ」としかいわない。そこにも異常なる責任が存在しているのは確かだ。 自分が実存哲学から解剖学などの医学世界へ「投企」したのは、両親の支え、学校の存在、古くから存在する医学、その後の自分という特に、このその後の自分という責任感を踏まえた上で、進んだはずであった。 しかし、前述するように、月給14万~19万という非人間的な生き方、、、、、、 その後のいろいろ転職したこと、その後の解雇も含めて、投げ出された先にはまた世界があり、世界内存在という次元で凋落している。しかも、妻ももったため、ますます自由は狭くなる(サルトルはどんな社会的政治的状況でも実存は生存が狭まれば狭まるほど益々強くなると書いているが)ような状況、子供を造れという世間の無言の圧力(何せ不惑だから・・そもそも結婚が遅い、子供造りも遅いという社会的圧力!)、不惑ならば年収八百萬はもらっていなければならないだろう一般常識、それらにすべてあてはまっておらず、なお、自分はどうする、投げ企てる事を考えている。 どこまでいっても、「世界内存在」として単なる人として安定を求めて凋落しているの(たいらくを凋落としています)である。安定に神はなく、安定に存在はないという。自分の銅像を立ててまで自分を示したい、自分の存在を実存存在にしたいという人もいる中、自分は「次なる就職」しか考えられない。 まず生きる事、ただ単に生きるのではなく、よく生きる事、という言葉がある。 よく生きるために、道を選択して来たはずなのに、その結果は、「社会的奴隷」というのは自分ー対自ー実存の担い手と存在ー即自ー存在の担い手ーとのあいまの無におびえているだけである。 投げ出して、なお、この状況は、「安定を求めて」いくからなのだろう。 道路で寝ている人も安定したいと思って行き着いた先が、あれだ。 昔、そういえば、「俺達このままだと、公園で野宿生活だぜ」と一括されてキレかけた事があった。親しくもないのに一緒にするな。と。 その人は、多分HIVで死んでいるらしいとのことだ。あれじゃそうだろう。 その人に言ってあげたい。「よかったね、野宿生活じゃなくて」 と話がズレまくりなんだが、 投げる企てを試みても、世界内存在につづけることは、ハイデガーの言うような有限性としての人間存在を自覚していないからか、それとも、いつも神の前に祈りみたいな考えをもっている自分は、キルケゴールのように「信じるか、躓くか選択せよ」としか言わない神を信奉するのか。できれば、「君の場合はね、あれはこうで、こうしたら良いヨ」などといってくれる親切心旺盛な神様の格上存在を持ちたいのか。 なんだかわからない。 適切なアドバイスはいつもほしい。しかし、命令はいやだ。 「神の存在はあってほしい、しかし、奴隷は嫌だ」 うーん。 わかりません。 キルケゴールにより過ぎてもなんだし、サルトルにより過ぎても、何により過ぎても実存はこれだと言うものがなかなか見当たらないです。 もっと生きてみよ、されば分かるだろう なのか???? 読者のご意見ききたいものです。 PR ![]() ![]() |
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