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~神への帰依の模様を日常からの問答から導き出します~
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ー極限までいって、私と私の死との間が無限小になった瞬間には、私はもはや私の過去でしかないであろう。私の過去だけが、私を限定するであろう。
 ソフォクレスが「トラキスの女達」のかで、ディアネイラに次のように言わせるとき、ソフォクレスが言い表そうとしたのは、そのことである。《昔から世間にとおっていることわざであるが、人が死ぬまではその人の一生について判定を下すことはできないし、その人の一生が幸福であったか不幸であったかを言うこともできないはずだ》それはまた《死が生を運命に変える》というマルローの句の意味である。信者が死の瞬間に「賭けはなされた。もう切り札は残っていない」ことを、愕然として悟るとき、彼を打ちのめすのも、結局、それである。
 《永遠がわれわれをわれわれ自身に変じたごとく》、死はわれわれをわれわれ自身に合体させる。死の瞬間に至って、われわれは存在する。われわれがあるところのものについて、人は真に決定を下すことができる。もはやわれわれは、全知なる一つの叡智がなしうる総計から、逃れ出でるいかなる機会も持たない。また、いまわのきわの悔悟は、われわれのうえに徐々に固まり固体化してきたこの全存在を、ぐらつかせようとするあらんかぎりの努力であり、われわれがそれであるところのものとの連帯を断ち切ろうとする最後の跳躍である。
 だが、その甲斐もなく、死はこの跳躍を、その他のものと共に凝固させる。・・・死によって対自がそっくり過去に滑り去った限りにおいて、対自は、永久に即自へと変じる。
 かくして、死者は生者の餌食となる。生者は死者をどのように遇することもできる。死ぬとは、もはや他人の自由の前にしか存在しないように運命付けられることであり、私の実存の永遠の他有化であり、私の実存の回復する事のできない絶望的な疎外である。


生きていることが自由で実存であるから、死者に口なしというようなことー他者からのその人の人生の評価や即自となった自分のなきがらを、切り捨てるにしても、なにするにしても任せるしかない。幸福だった、不幸だったという判定すら他者にしてもらうしかない。
が、そうしてもらうことが生きている意味ではない。生きていることは実存であり、他者に善なる生き方だとかほめられても仕方がない。


自由と状況ーアンガージュマンへ続くー
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19で双子の片割れとなる。不惑にてまだ迷い、
冥界と現実世界を行き来し、いまだに形とならない創造力が俺を圧迫して、不安にさせている。誰からの許可が要るのだろうか。
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